大阪地方裁判所 昭和61年(ワ)11516号 判決 1988年12月22日
主文
一 被告油木喜代滿は、原告仲波名町子に対し金八〇〇万円、原告仲波名利夫、同仲波名信義に対し各金三五〇万円及び右各金員に対する昭和六〇年七月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らの被告人羅俊雄に対する請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、原告らに生じた費用の二分の一と被告油木喜代滿に生じた費用を被告油木喜代滿の負担とし、原告らに生じたその余の費用と被告人羅俊雄に生じた費用を原告らの負担とする。
四 この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 主文第一項と同旨
2 被告人羅俊雄は、原告仲波名町子に対し金三〇五五万三九〇六円及び内金二八五五万三九〇六円に対する昭和六一年一二月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員、原告仲波名利夫、同仲波名信義に対し各金一四九〇万一九五三円及び内金一三九〇万一九五三円に対する昭和六一年一二月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は被告らの負担とする。
4 右1、2につき仮執行の宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
(一) 原告仲波名町子(以下「原告町子」という。)は、昭和六〇年五月九日に死亡した訴外亡仲波名孝三(昭和一四年一月二七日生。以下「亡孝三」という。)の妻であり、原告仲波名利夫(以下「原告利夫」という。)、同仲波名信義(以下「原告信義」という。)は、亡孝三と原告町子との間の長男及び次男である。
(二) 被告油木喜代滿(以下「被告油木」という。)は、亡孝三死亡当時、同人とともに大栄工鈑工業所こと出口幸清方に板金工として勤務していたものである。
(三) 被告人羅俊雄(以下「被告人羅」という。)は、肩書地において「ヒトラ外科病院」(以下「ヒトラ外科」という。)を経営している医師であり、同病院の勤務医である前田章医師(以下「前田医師」という。)の使用者である。
2 本件事故の発生
被告油木は、昭和六〇年五月七日午後七時三〇分ころ、大阪市淀川区加島三丁目一番所在の松井モータープール内(以下「本件現場」という。)において、亡孝三の背後から同人の両足首付近を掴んでその場に前のめりに転倒させたり、その顔面を平手で殴打してその場に仰向けに転倒させる等の暴行を加え、よって同人の頭部をコンクリート土間に強く打ちつけさせた。右暴行により、亡孝三は、右側頭部皮下出血・右側頭部筋内出血・右側頭部頭蓋骨骨折等の傷害を負い、同月九日午後一一時五四分ころ、ヒトラ外科において、右傷害に基づく脳腫脹兼クモ膜下出血により死亡した。
3 ヒトラ外科における診断経過
(一) 亡孝三は、2記載の暴行のため昏睡状態に陥り、右状態のまま現場に居合わせた訴外前田勝(以下「前田」という。)運転の自動車で自宅に運ばれ、次いで原告町子に付添われて救急車でヒトラ外科に運ばれ、五月七日午後九時四〇分ころ同外科に到着した。
(二) 亡孝三は、ヒトラ外科到着後、意識不明のまま前田医院の診察を受けた。前田医師は、亡孝三に対し頭部の触診・血圧・脈拍・瞳孔・対光反射及び着衣上からの両手両足の知覚検査を行ったのみで、同人が単に泥酔状態にあるものと速断し、看護婦に止血剤・制吐剤・肝庇護剤等の点滴投与を指示したのみで、現に亡孝三に生じていた頭部外傷・頭蓋内出血・血腫等を考慮したX線撮影・CTスキャン・眼底検査・採尿・採血等の諸検査も、右疾患に対する適切な治療も全く行わなかった。
なお、前田医師は、右診察にあたり、原告町子から亡孝三が頭部を強打して意識を失ったこと、亡孝三の様子が普段酔って帰って来た時と全く異なることの説明を受け、嘔吐のあったこと、右上眼瞼の皮下出血を確認している。
(三) その後、亡孝三は、診察室の隣室のベッドに移され、前記点滴を受けていたが、五月七日午後一一時三〇分ころ前田医師の二回目の診察があるまでの亡孝三の症状の経過は次のとおりである。
(1) 亡孝三が隣室のベッドに移されて間もなく、原告町子が亡孝三のパンツ・ステテコをはき替えさせたところ、同人が失禁していたことが判明した。
(2) 亡孝三は、右ベッドにおいて「かー」というような大きな鼾をかいて眠っているだけだったが、午後一一時三〇分ころ、無意識のまま起き上がろうとするように手足を動かし、点滴の支持棒が倒れそうになったりした。そこで原告町子は、看護婦にその旨伝え、医師の往診を求めた。この時、亡孝三は、原告町子が「お父さん。まだ酔っているの。しっかりして。」などと呼び掛け、左の頬を手で叩いたのに対し、「町子」、「町子」と二回原告の名を呼び、原告町子とともに付添っていた亡孝三の兄訴外仲波名信明(以下「信明」という。)の呼掛けにも沖縄弁で二言三言応答したものの、それ以上の反応はなかった。
(四) 前田医師は、五月七日午後一一時三〇分ころ亡孝三の右のような状況を聞いて再度同人を診察したが、その際原告町子は、同医師に亡孝三が失禁していたこと、呼掛けに対して明確に応答しなかったこと等を伝えたにもかかわらず、同医師は、なお亡孝三は泥酔状態が続いているものと判断し、看護婦に尿道カテーテルと睡眠薬の注射と点滴による投与を命じたのみで、特に改めて診察、検査等は行わなかった。
(五) 亡孝三は、翌八日午前七時五五分ころ、呼吸困難の状態に陥ってしまった。看護婦の通報により、被告人羅がCTスキャン、X線撮影を行った結果、右側頭部頭蓋骨骨折・クモ膜下出血及び血腫を発見したが、亡孝三は既に手術不適応の状態に陥っていた。そのため、亡孝三は、被告人羅により人工呼吸装置の使用等救命装置とその他保存的治療がなされたが、結局前記のとおり死亡した。
4 前田医師の過失
(一) 前田医師は、五月七日午後九時四〇分ころの初診時において、原告町子から亡孝三が頭部を強打し意識を失った旨聞いており(仮に聞いていないとしても、容易に聞き出せたことであり、医師としての責任は同じである。)、亡孝三の右上眼瞼の皮下出血及び嘔吐があったことを確認し、また亡孝三が失禁していたことも容易に確認できたことであり、更に同人が帰宅時から右診察中に至るまで大鼾をかいたまま同医師や原告町子の呼掛けにも応答しない状態が続いていたことを聞き、あるいは現認していた。従って、右診察をする前田医師にまず求められることは、亡孝三の意識不明の原因が単なるアルコール中毒によるものか、その他の脳障害等によるものかの識別、原因の追求であり、同医師がこの点について医師としての問題意識をもって診察しておれば、亡孝三に生じていた頭部外傷・頭蓋内出血・血腫等を考慮、推測し得た。そして、同医師が右考慮、推測のもと、X線撮影・CTスキャン・眼底検査・採尿・採血などの諸検査を行っていれば、亡孝三の右疾患を発見し、これに対する適切な措置をとることにより同人の救命も可能であった。にもかかわらず、前田医師は、問題意識の無さから、前記疾患の可能性を考慮せず、単に3(二)記載のような診察、検査を行ったのみで右必要な諸検査を怠り、亡孝三の前記疾患を看過し、単なる泥酔状態にあるものと判断した。
(二) 前田医師は、同日午後一一時三〇分ころの二回目の診察時においても、亡孝三の意識混濁のための不隠状態がアルコール中毒によるものか、その他の脳障害等によるものかの識別、原因の追及が求められており、亡孝三の意識状態が初診時から二時間前後経過しているにもかかわらず改善していないこと、原告町子から新たに亡孝三の失禁の事実を聞いていること、亡孝三の容態は客観的には悪化していたのであるから、血圧、脈拍、呼吸等バイタルサインも変化していた筈であり、それに基づき瞳孔の左右不同の有無、対光反射の有無、うつ血乳頭の有無等の神経学的検査も容易にできたのであるから、より一層亡孝三に生じていた前記疾患を考慮、推測し得た。にもかかわらず、前田医師は、問題意識の無さから亡孝三のバイタルサインも注意深く観察せず、神経学的検査はもちろん、X線撮影、CTスキャンも行わなかった。
(三) 右(一)(二)の過失により、前田医師は亡孝三に生じていた前記疾患を看過してしまったのである。
5 前田医師の過失と亡孝三死亡との因果関係
(一) 前田医師が4記載の初診時若しくは二回目の診察時に亡孝三の前記疾患の可能性に気付き、頭蓋骨単純X線撮影だけでも行っていれば、少なくとも頭蓋骨骨折はその時点で発見されていた。
(二) そして、前田医師が右結果に基づき脳外科専門医である被告人羅に連絡し、亡孝三の意識混濁の原因についての確定的診断を仰ぐことができ、また、連絡を受けた被告人羅は、CTスキャン・脳血管撮影等により、亡孝三のクモ膜下出血及び出血原因の所在が究明できた。
(三) その場合、前田医師の二回目の診察時刻の方をとっても、五月七日午後一一時三〇分ころで、亡孝三の受傷時刻である同日午後七時三〇分ころから約四時間しか経過していなかったのであるから、手術の適応性は十分あった筈であり、また直ちに手術的措置をとらず、経過を観察するにしても、呼吸・循環の管理、脳代謝賦活剤・副腎皮質ホルモン・脳圧降下剤の投与等を施しながら慎重に行うこととなるため、亡孝三の救命は可能であった。
(四) 従って、亡孝三の死亡は、前記のとおりの前田医師の過失によって右のような措置をとることなく、その症状を悪化するに任せ、よって亡孝三を手術適応のない状態へ追いやってしまったことに原因がある。
6 被告らの責任
(一) 被告油木は、前記2のとおりの暴行によって亡孝三に傷害を負わせ、その結果同人を死亡させたのであるから、右不法行為に基づき、亡孝三及び原告らが被った損害を賠償する義務がある。
(二) 被告人羅は、昭和六〇年五月七日午後九時四〇分ころ亡孝三の代理人である原告町子との間で、亡孝三が被告油木の暴行によって被った傷害につき適切に治療することを被告人羅の債務とする診療契約を締結した。しかるに、被告人羅の履行補助者である前田医師は、前記4のとおり右契約の本旨に従った適切な治療を怠り、亡孝三を脳腫脹兼クモ膜下出血により死亡させたものであるから、被告人羅は、債務不履行に基づき、亡孝三及び原告らが被った損害を賠償する義務がある。
また、前田医師の右行為は不法行為に該当するところ、被告人羅は、前田医師の使用者として、同医師が事業の執行につき生じさせた損害を賠償する義務がある。
7 損害
(被告油木に対する主張)
(一) 逸失利益
金三八九三万二三九九円
亡孝三は、死亡当時四六歳で、前記大栄工鈑工業所に勤務していたところ、亡孝三と同じ中学校卒業の有職者で四六歳男子の年間平均給与は、賃金センサス昭和五八年によると、金三九四万三四〇〇円であり、この額をもとに就労可能年数二一年、ホフマン係数一四・一〇四、生活費控除三〇パーセントとして亡孝三の逸失利益を算出すると、金三八九三万二三九九円となる。
(二) 慰謝料 金一五〇〇万円
亡孝三は、昭和四一年二月原告町子と結婚し、以後原告利夫、同信義とともに円満な家庭生活を送ってきたものであるところ、被告油木の不法行為により突然幽明境を異にするに至ったのであり、慰謝料額は金一五〇〇万円を下回るものではない。
(三) 葬儀費用 金七五万円
原告町子は、妻として亡孝三の葬儀を営んだが、それに要した費用は右金額を下回るものではない。
(四) 原告らは、亡孝三の被告油木に対する前記(一)(二)の損害賠償債権合計金五三九三万二三九九円を、各法定相続分に応じて相続した。
(被告人羅に対する主張)
(五) 逸失利益
金四〇六〇万七八一三円
前記(一)のように、賃金センサス昭和五九年によって求めた中学校卒業の有職者で四六歳男子の年間平均賃金四一一万三一〇〇円、就労可能年数二一年、ホフマン係数一四・一〇四、生活費控除三〇パーセントをもとに、亡孝三の逸失利益を算出すると、金四〇六〇万七八一三円となる。
(六) 慰謝料 金一五〇〇万円
(1) 亡孝三は、昭和四一年二月原告町子と結婚し、以来原告利夫、同信義とともに円満な家庭生活を送ってきた。
(2) 亡孝三は、延命救命が十分に可能であったにもかかわらず、前田医師の重大な過失により、適切な治療を受けるべき機会、利益を全く奪われたまま死亡した。
(3) 被告人羅は、原告町子に対し、被告油木の暴行による亡孝三のクモ膜下出血の原因について動脈瘤破裂と説明して、原告町子に亡孝三の疾患は内因性のものと思いこませ、あるいは、亡孝三の死因、同人の解剖、警察への通報等について何の説明、助言もなさなかったため、亡孝三の真の死因を知った原告らに不信感や精神的苦痛を与えたばかりではなく、被告油木の犯罪行為を不問に付し、原告らの被告らに対する損害賠償請求権を喪失させるおそれを生じせしめた。
これは、原告らの亡孝三の疾患、死因につき被告人羅から納得のいく合理的説明を受ける権利、あるいは亡孝三の右説明に対する期待権を侵害する説明義務違反である。
以上の事実を考慮すると、亡孝三の慰謝料額は金三〇〇〇万円を下るものではないので、そのうち金一五〇〇万円を請求する。
(七) 葬儀費用 金七五万円
前記(三)のとおり
(八) 弁護士費用 金四〇〇万円
原告らは、本件訴訟を原告ら代理人に委任し、弁護士費用として原告町子は金二〇〇万円を、原告利夫、同信義は各金一〇〇万円を支払う旨約した。
(九) 原告らは、亡孝三の被告人羅に対する前記(五)(六)の損害賠償債権合計金五五六〇万七八一三円を、各法定相続分に応じて相続した。
8 よって、
(一) 被告油木に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、原告町子は金二七七一万六一九九円の内金八〇〇万円、原告利夫、同信義は各金一三四八万三〇九九円の内金三五〇万円及び右各金員に対する不法行為の日の後である昭和六〇年七月一二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金
(二) 被告人羅に対し、債務不履行もしくは不法行為の使用者責任による損害賠償請求権に基づき、原告町子は金三〇五五万三九〇六円及び内金二八五五万三九〇六円に対する不法行為の日の後で、かつ訴状送達の日の翌日である昭和六一年一二月二二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金、原告利夫、同信義は各金一四九〇万一九五三円及び内金一三九〇万一九五三円に対する右同日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する被告油木の認否
1 請求原因1(一)(二)は認める。
2 同2は、被告油木が原告ら主張の日時に亡孝三の両足首付近を掴んで前のめりに転倒させたこと、同人の顔面を平手で殴打したことは認め、被告油木が亡孝三を死亡させたことは否認する。
亡孝三の頭蓋骨骨折等の傷害が被告油木の暴行の結果であるかどうかは不明であり、他の場所での受傷の可能性も否定できない。特に、被告油木の暴行のうち、平手による二回の殴打については、同人に殴った感触はなく、亡孝三が相当酔っていた状態からして足がもつれる等して自ら転倒した可能性も極めて高い。
仮に亡孝三の死因が外傷に基づくものであるとしても、前田医師は、亡孝三がヒトラ外科に入院した五月七日午後九時四〇分ころから翌八日午前八時ころまで同人を放置していたものである。そして、前田医師が入院時に亡孝三に対しCTスキャン、X線撮影をし、適切な手術をしていれば亡孝三は十分助かった可能性があったのであるから、前田医師の過失は明白であり、被告油木の暴行と亡孝三の死亡との間に因果関係はない。
3 同6(一)、7(一)ないし(四)は争う。
三 請求原因に対する被告人羅の認否及び主張
1 請求原因1(一)(三)は認める。
2 同2については詳細は知らないが、客観的な事実として亡孝三が喧嘩して頭部に強度の打撃を受けていた事実は認める。
3 同3(一)のうち、亡孝三が原告ら主張のころ救急車で原告町子らに付添われてヒトラ外科に来院したことは認めるが、その余は知らない。
同3(二)のうち、前田医師が亡孝三の診察をしたことは認めるが、前田医師は「酔っぱらって他人と喧嘩して椅子からころげ落ち、下はコンクリートだった。嘔吐が一回あった。」としか説明を受けておらず、亡孝三の負傷に関する正しい情報の提供は受けていなかった。そして、前田医師の診察によると、亡孝三には眼瞼に皮下出血を伴う腫脹があったものの頭部に出血や明らかな腫脹もなく、瞳孔が拡瞳気味で対光反射も遅れ気味であったが、他方、瞳孔の左右不同はなく、意識状態も呼掛けに応答できる程度であり、四肢の自動運動もできる状態であったほか、強度のアルコール臭もあったため、同医師は亡孝三が泥酔状態にあるものと判断して入院させ、原告の主張の薬剤を含む点滴をしながら観察することにした。その間、前田医師は、亡孝三を放置したわけではなく、看護婦に綿密な観察をさせたほか、家庭にも状況を説明し、亡孝三の呼吸の異常や痙攣の有無に注意して異常があれば直ちに連絡するよう指示している。
同3(三)については、その後の亡孝三の経過に重篤な脳障害の進行を疑わせるものはなく、午後一〇時三〇分ころ暴れようとしたが説得によって大人しくなったこと、午後一一時三〇分ころ起き上がりトイレに行くと言って制止をきかない等、不隠状態がみられたが、その外に特別の症状の訴もなかった。
同3(四)のうち、原告ら主張の時刻に前田医師が亡孝三を診察したこと、脳出血を想定した検査等を行っていなかったことは認める。
同3(五)については、原告主張の日時ころ急に亡孝三の呼吸が異常になるという形で、病状の急変が始まった。被告人羅が病室に急行すると、呼吸、心停止をみたので、直ちに救急処置を開始するとともに、緊急CT検査を行い、脳の出血所見を得た。レントゲンでは右側頭部頭蓋骨に綿状骨折を認めたが、CT所見では、むしろ脳室内の出血と判断されたので、原因として脳動脈瘤破裂を考えたものである。
4 同4は否認する。前田医師が脳の障害を想定した検査等を行っていなかったことは前記3のとおりであり、結果論的に右検査等の実施が望ましかったとしても、同医師は亡孝三の受傷に関する正確な情報を得ておらず、また亡孝三についての所見からしても、それを法的義務として要求するのは過酷である。
5 同5は否認する。前田医師が、原告ら主張の各時点でX線撮影をしていたとしても、判明するのは右側頭部の骨折のみと考えられるが、これは表面上だけのもので内部まで達しておらず、その部分には症状として現れるような出血はなかった。内部まで達して致命的な出血を招いた骨折は、特別な角度から撮影しなければ写らない部位であり、通常のX線撮影では発見しえないものであった。
出血についても、原告ら主張の時点で問題となるような出血があったとは考えられない。X線撮影はもちろんCTスキャンによっても危険な出血を把握し得ず、その後、翌八日朝の急変の発生した直前から出血が致命的な量となった可能性も十分ある。
CTスキャンによっても、亡孝三の疾患は脳底のクモ膜下出血と判定できず、むしろ内因性の疾患である脳室内の出血と判定されるような検査結果が出たのであり、これは直接に出血部位を確認できないCT検査の限界としてやむを得ないものである。
本件の亡孝三の脳底のクモ膜下出血で試みられる手術は、頭蓋骨を開け脳を持ち上げて、その裏の脳底部の奥にあるクモ膜の血管破綻部に到達して止血を試みるという困難な手術であり、それが成功するという保証はないし、それらの手術自体による損傷や脳浮腫や血管攣縮による二次的な脳損傷の進行も十分にあり得る。
6 同6(二)は争う。なお、亡孝三は原告町子に対して代理権授与の意思表示をなし得なかった筈である。
7 同7(五)ないし(九)については、死亡時の年齢、相続割合を除き、全て争う。特に本件のような脳障害を受けながら、医療によって完全に旧に復するようなことはあり得ない。
原告ら主張の説明義務違反が問題となる余地はない。被告人羅が亡孝三の九月八日朝の急変について内因性の疾患を考えたのは、あくまでCTスキャンの所見に基づくものであり、右によると解剖で確認された脳底のクモ膜下出血と判断できるものではなく、むしろ脳室内の出血と判定されるものであった。従って被告人羅が事実を曲げようとした事実はない。また、原告らの主張によると、亡孝三には意識がなく、客観的に泥酔状態で十分な判断能力がなかったのであるから、同人の期待権をいうのは論理矛盾である。
四 被告油木の抗弁
1(正当防衛)
仮に亡孝三が被告油木の傷害行為により死亡するに至ったとしても、被告油木の傷害行為は次のとおり正当防衛である。すなわち、亡孝三は、井川酒店において被告油木に対しビール瓶で殴りつけ、さらに本件現場においても同人に対し両手両足で殴る蹴るの暴行を続けたものであり、被告油木の傷害行為は、右亡孝三の連続する一連の暴行行為、すなわち急迫不正の侵害から自己の身体を防衛するため、やむを得ずなされた反撃行為である。
2(過失相殺)
仮に被告油木に過失があったとしても、同人の傷害行為は亡孝三の右のような理不尽な言動に起因するものであり、亡孝三の過失割合は著しく大きい。
五 被告油木の抗弁に対する認否
1 抗弁1は否認する。
2 抗弁2は争う。被告油木の暴行は、酩酊している亡孝三の背後から両足首を引張って前のめりに転倒させる等著しく危険なものであり、その後亡孝三が大鼾をかいて寝てしまったというのに、これに対する処置も極めて不適切で、結局救護措置を遅らせてしまったのであり、被告油木の責任は重大である。
第三 証拠関係<省略>
理由
第一 被告油木に対する請求について
一 請求原因について
1 請求原因1(一)(二)の事実は当事者間に争いがない。
2 同2のうち、被告油木が原告ら主張の日時に亡孝三の両足首付近を掴んで同人を前のめりに転倒させたこと、その顔面を平手で殴打したことは当事者間に争いがないので、その余の事実について判断する。
(一) 右争いのない事実と、<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められ、<証拠>中、右認定に反する部分は前掲各証拠に照らしてたやすく信用できない。
被告油木は、昭和六〇年五月七日午後七時ころ、亡孝三、前田、訴外長瀬弘(以下「長瀬」という。)らとともに本件現場に立寄り、同所で亡孝三と喧嘩口論になった。亡孝三が被告油木に対し殴る蹴るの暴行を加えた後、同人から数メートル離れた地点で同人に背を向けて立っていたところ、同人は、亡孝三に対し背後から両足首付近を掴んで引張り、亡孝三を前のめりに転倒させた。起き上がった亡孝三が被告油木の方向へ向かって行ったので、それを見た長瀬は、亡孝三と被告油木の間に割って入り、両名を制止しようとした。しかし、被告油木は、さらに亡孝三の顔面を平手で二回殴打し、同人をその場に仰向けに転倒させた。右暴行によって、亡孝三はコンクリート土間で頭部を強打し、右側頭部皮下出血・右側頭部筋内出血・右側頭部頭蓋骨骨折等の傷害を負い、五月九日午後一一時五四分ころヒトラ外科において、右傷害に基づく脳腫脹兼クモ膜下出血により死亡した。
右の点について、被告油木は、亡孝三の受傷は被告油木の暴行によるものではなく、特に被告油木が亡孝三を平手で二回殴ろうとした際の同人の転倒は自損行為であった旨主張するが、前者については、本件全証拠によっても、当時の状況下において被告油木の判示暴行以外に亡孝三が頭部を負傷する原因となる事実をうかがうことができないし、後者についても、前示各証拠によれば、被告油木の亡孝三に対する二回の平手による殴打は、長瀬の体越しになされたため左程強度の打撃でなかったとはいえ、確実に亡孝三に命中しており、その直後に亡孝三が仰向けに転倒していること、また、打撃の効果の面についても当時亡孝三が相当酩酊していたことが認められるのであるから、被告油木の前記殴打によって亡孝三が転倒したとみるのがごく自然であり、結局、亡孝三の仰向けの転倒は被告油木の暴行によるものと認めざるを得ず、被告油木の前記主張は採用できない。
(二) また、被告油木は、前田医師の過失行為の介在を理由に、前記暴行と亡孝三の死亡との因果関係の存否について争うが、右(一)認定の事実のほか、亡孝三の受傷は前記のとおり、右側頭部頭蓋骨骨折で、右骨折は脳底部に達するものであったこと、そして右傷害は通常、受傷者の死亡を招来する危険性の高いものであることが前示各証拠から認められるのであるから、前田医師の過失、医療行為の適否にかかわらず(但し、前田医師が積極的に亡孝三の死亡に対して起因力を与えた場合等特段の事情ある場合は格別であるが、本件においては右特段の事情を認めるに足りる証拠は存しない。)、被告油木の暴行と亡孝三の死亡との間の因果関係は肯定されると解するのが相当である。
3 前記1、2の認定判断によれば、亡孝三が被告油木の暴行によって死亡するに至ったことは明らかであるから、被告油木は、民法七〇九条により、右不法行為によって生じた損害を賠償する義務がある。
4 原告町子が亡孝三の妻であり、その余の原告らはいずれも亡孝三の子であることは当事者間に争いがない。従って、亡孝三の死亡により、原告町子は二分の一、その余の原告らはそれぞれ四分の一の各割合で亡孝三の権利義務を承継した。
5 そこで、亡孝三及び原告らの損害について検討する。
(一) 逸失利益
亡孝三が昭和一四年一月二七日生まれであることは当事者間に争いがないから、同人は死亡時四六歳であったと認められ、また、亡孝三の最終学歴が新制中学校卒業であることは弁論の全趣旨によって、同人が死亡時大栄工鈑工業所こと出口幸清方に板金工として勤務していたことは原告町子本人尋問の結果によってそれぞれ認められるが、右当時の亡孝三の現実の所得については、これを認める適切な証拠がない。そこで、右受傷時である賃金センサス昭和六〇年の第一巻第一表の産業計・企業規模計の男子労働者のうち小学・新中卒の四五ないし四九歳の平均給与額によってその所得を算定すると、きまって支給される現金給与額金二八万九〇〇〇円の一二倍に年間賞与その他の特別給与額金八二万一一〇〇円を加えた合計額金四二八万九一〇〇円が亡孝三の年間所得となる。そして、亡孝三は存命していたとすれば六七歳まで二一年間稼働して右所得を得ることができたと認めるべきであるから、右所得額から亡孝三の生活費として三〇パーセントを控除したものに、右二一年の新ホフマン係数(一四・一〇四)を乗じて亡孝三の逸失利益を計算すると、金四二三四万五四二六円となる。
(二) 慰謝料
<証拠>によると、亡孝三昭和四一年二月原告町子と結婚し、以来未成年の長男原告利夫、同二男信義とともに円満な家庭生活を送ってきたことが認められ、これに前記認定の本件暴行の態様、亡孝三の受傷内容、死亡結果等諸般の事情を斟酌すると、亡孝三の死亡による精神的損害に対する慰謝料としては、金一五〇〇万円が相当である。
(三) 葬儀費用
原告町子本人尋問の結果及びこれによって成立の認められる甲第一五号証によれば、原告町子は、少なくとも金七五万円の葬儀費用を支出したことが認められる。
二 抗弁について
1 正当防衛について
<証拠>によれば、以下の事実が認められ、被告油木本人尋問の結果中、右認定に反する部分はたやすく信用できない。
(一) 亡孝三は、五月七日午後五時過ぎころから同僚の前田と大阪市淀川区加島三丁目一番二三号所在の井川酒店(以下「井川酒店」という。)で飲酒していたところ、同日午後五時三〇分ころ、やはり亡孝三の同僚である被告油木及び長瀬が同店に入って来たので、右四名で一緒に飲酒することとなった。右四名はしばらく雑談しながら飲酒していたが、午後七時過ぎころ、酒癖の悪い亡孝三は、普段からあまり仲の良くなかった被告油木にからみ始め、ビール瓶で同人の顔面を殴りつけたりした。これによって、被告油木は、顔面打撲傷・同部皮下血腫により七日間の通院加療を要する傷害を負っている。
(二) 右四名は、前記(一)の喧嘩のため井川酒店を出て、午後七時三〇分ころ同店近くの本件現場において、雨宿りをしながら、被告油木と亡孝三がお互いに話し合うこととなったが、亡孝三は、被告油木に対して、さらに両手両足で殴る蹴るの暴行を繰り返し加えた。しかし、亡孝三は当時相当酩酊した状態であったため、右暴行はそれほど強度のものではなく、また、殴打や蹴りも全部が被告油木に命中していたわけではなかった。
(三) 被告油木は、亡孝三の右暴行に対してしばらく防御態勢のまま我慢していたが、亡孝三に「俺は強いんや。お前なんかに負けへん。」等と勝ち誇ったように言われるに及んで憤激し、被告油木から数メートル離れた地点で同人に背を向けて立っていた亡孝三に対し、その背後から両足首付近を掴んで引張って、亡孝三を前のめりに転倒させた。
(四) 右転倒から立ち上がった亡孝三が被告油木に対して再度攻撃を加えるかのような姿勢を示したため、長瀬は、亡孝三と被告油木の間に割って入り、両名を制止しようとしたが、被告油木は、長瀬の体越しに、さらに亡孝三の顔面を平手で二回殴打し、亡孝三はその場に仰向けに再び転倒した。
以上認定の事実によると、被告油木の前記(三)の暴行は、亡孝三の攻撃が既に終了していたのに、亡孝三の一連の言動に憤激してその背後から不意打ちになされたものである。また、前記(四)の暴行についても、亡孝三に再度攻撃の姿勢こそ認められるものの、亡孝三は相当酩酊した状態で、長瀬も亡孝三を制止していたものである一方、このような事態は、被告油木の前記(三)の暴行によって引き起こされたものであり、被告油木にとって亡孝三の右攻撃の姿勢は十分予期しえたものであるから、結局、被告油木の右暴行は、亡孝三の攻撃を避けるのに不必要な先制攻撃というべきである。従って、いずれの暴行をとっても、亡孝三の不法行為に対して自己の権利を防衛するためやむことを得ずになされた加害行為であると認めることはできない。
右のとおり、被告油木の正当防衛の抗弁は失当である。
2 過失相殺について
前記認定の本件事故の状況によれば、亡孝三は、井川酒店から本件現場に至るまで執拗に被告油木にからみ、また、被告油木の前記暴行に至るまで一方的に被告油木に殴る蹴るの暴行を加え続けて同人を憤激させており、亡孝三には被告油木の前記暴行を誘発した過失がある。これに被告油木の暴行の危険性、発生した結果の重大性等諸般の事情を考慮すると、亡孝三及び原告らの被った損害につき三〇パーセントの限度で過失相殺をするのが相当である。
そこで、前記5で認定した逸失利益と慰謝料の合計額金五七三四万五四二六円及び葬儀費用金七五万円をそれぞれ右割合で過失相殺をすると、前者は金四〇一四万一七九八円、後者は金五二万五〇〇〇円となる。
四 結論
よって、被告油木は、原告町子に対し損害賠償金二〇五九万五八九九円の内金八〇〇万円、原告利夫及び同信義に対し各損害賠償金一〇〇三万五四四九円の各内金三五〇万円及び右各金員に対する不法行為の日の後である昭和六〇年七月一二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。
第二 被告人羅に対する請求について
一 請求原因1(一)(三)の事実は当事者間に争いがなく、同2の事実については、<証拠>によって認められ、<証拠>中、右認定に反する部分は前掲各証拠に照らしてたやすく信用できない。
二 <証拠>によれば、亡孝三の代理人原告町子と被告人羅との間で請求原因6(二)記載のような診療契約が締結されたことが認められる。
三 そこで、まず亡孝三の症状及び診療の経過について判断する。
請求原因3(一)のうち、亡孝三が原告ら主張のころ救急車で原告町子らに付添われてヒトラ外科に来院したこと、同3(二)のうち、前田医師が亡孝三の診察をしたこと、亡孝三の眼瞼に皮下出血のあったこと、前田医師が瞳孔・対光反射及び両手両足の知覚の検査を行い、亡孝三が泥酔状態にあるものと判断したこと、亡孝三に対し原告ら主張の薬剤を含む点滴をしたこと、同3(四)のうち、原告ら主張の時刻に前田医師が亡孝三を診察したが、脳出血を想定した検査等は行っていないことについては当事者間に争いがなく、右争いのない事実及び前記一で認定した事実と、<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められ、<証拠>中、右認定に反する部分はたやすく信用できない。
1 亡孝三は、五月七日午後七時三〇分ころ、本件現場において被告油木の暴行によって転倒し、頭部をコンクリート土間に強く打ちつけ、倒れたまま意識を失い、大きな鼾をかきはじめた。そこで、居合わせた前田、長瀬及び被告油木は、亡孝三を前田運転の自動車に乗せ自宅まで運搬したが、途中、右三名が寄り道等をしたため、亡孝三が右前田らによって自宅に送り届けられたのは同日午後九時三〇分ころであった。なお、亡孝三は、右帰宅までに一回嘔吐している。
2 原告町子は、右前田らから亡孝三を引き取ったが、その際前田らは、原告町子に亡孝三の受傷状況等について正確な報告、説明をしていない。そして、原告町子は、亡孝三を一旦は自宅の畳の間に寝かしつけたが、なお大きな鼾をかいている同人の状態を見て、その様子が普段飲酒した時と異なるので不審に思い、救急車の手配をするとともに、近所に住む亡孝三の実兄信明を呼び寄せた。亡孝三は、右救急車によって同日午後九時四〇分ころ、原告町子や信明らに付添われてヒトラ外科に搬送されたが、その際救急隊員によって亡孝三の顔面は紅潮、意識は呼掛けに応じられることが観察されている。
3 当時、ヒトラ外科では、その所在地である尼崎市に飲食店や労務者等が多いためか、飲酒のうえ泥酔して病院に担ぎ込まれてくる患者が割合多く、夜間救急医療に当たる医師が種々の介護をすることも少なくなかった。そして、こうした泥酔患者は、病室内で暴れたりすることがなければX線撮影等をすること自体は可能であるが、通常は少し酔いがおさまるまで経過観察をしながら、そのままおいておくことが多く、また必要性の点からこれまでX線撮影・CT検査等が行われたことは一例もなかった。
4 亡孝三は、ヒトラ外科到着後、直ちに同病院の診察室において当直医であった前田医師の診察を受けた。前田医師は、当時兵庫県医科大学に勤務する整形外科とリハビリテーション専門の医師で、ヒトラ外科には週一回主にアルバイトの当直医として勤務していたものである。同医師は、診察にあたり原告町子から、患者の容態について「酔っぱらって他人と喧嘩して椅子から転げ落ちた。下はコンクリートだった。嘔吐が一回あった。」旨の説明を受けた。同医師は、亡孝三に対し、呼掛けに対する応答の確認、四肢の自動運動の確認、瞳孔の左右不同・対光反射、バビンスキー反射の検査、頭部の視診・触診及びこれに関連する事項についての原告町子に対する種々の質問、血圧・脈拍の測定を行い、その結果、呼掛けに対する応答があり、起き上がろうとする動作がみられ、四肢の自動運動も可能であること、バビンスキー反射は陽性、瞳孔は散瞳気味ではあるが瞳孔の左右不同はなく、対光反射は遅いこと、血圧は最大一一二、脈拍は一分間に八四、頭部外表に出血及び著名な血腫がなく、その他頭蓋骨骨折や頭蓋内出血を疑わせるような目立った外傷が存在しないことを確認した。そのほか、亡孝三の左眼瞼に皮下出血があり、また、強度のアルコール臭のすることを確認している。しかし、前田医師は、亡孝三に対して、X線撮影・CTスキャン等の検査は行っていない。以上の諸点から、前田医師は、亡孝三は泥酔状態にあるものと判断し、経過観察のため同人を入院させることとした。そして、亡孝三に対して、ビタミン剤・止血剤・制吐剤・肝庇護剤・維持輪液の点滴をし、同人の経過を観察するよう看護婦に指示するとともに、原告町子ら家族に対しては、呼吸の状態、麻痺及び痙攣の有無に注意し、異常があれば看護婦あるいは前田医師まで連絡するよう説明した。
5 亡孝三に付添っていた原告町子は、その後間もなく亡孝三の下着を取替える際、同人が失禁していることを認めた。
6 亡孝三は、五月七日午後一〇時三〇分ころ暴れようとしたが、説得によって大人しくなった。さらに同人は、同日午後一一時三〇分ころ「トイレに行く。」と言って起き上がろうとする等不隠状態が見られ、そのため原告町子は、前田医師を呼んだ。この時、亡孝三は、原告町子が亡孝三の頬を数回叩き、「お父さん、まだ酔っているの。しっかりして。」と言ったのに対し、「町子」、「町子」と妻の名を二回呼び、また、亡孝三の実兄信明の呼掛けに対しても、沖縄弁で二言三言応じた。その後、前田医師は、亡孝三の状態を見、あるいは原告町子から亡孝三の失禁の事実を聞いたうえで、同人はなお泥酔状態にあるものと判断し、睡眠薬を注射すること、点滴の中に睡眠薬を入れること、尿道カテーテルを施すことを看護婦に指示したが、その他特に検査等は行わなかった。
7 亡孝三は、その後看護婦により翌八日午前一時、三時、四時に平静な睡眠状態にあることを観察されたが、同日午前七時五五分ころに至り呼吸困難に陥る等容態が急変したため、連絡を受けた経験豊かな脳外科の専門医である被告人羅が亡孝三を診察したところ、呼吸停止、全身チアノーゼを呈していたので、人工呼吸装置等による救命措置を施すとともに、頭部CTスキャン・X線撮影の検査を行った。被告人羅は、右CTスキャンの映像から、亡孝三にかなり大きなクモ膜下出血を認め、その原因を脳動脈瘤破裂によるものと判断し、また、右X線撮影の結果、同人の右側頭部に線状骨折を認めた。しかしながら、右時点においては、亡孝三の容態、すなわち自発呼吸はなく、意識レベルは二〇〇で、血圧(最大八〇・最小五六)・脈拍(一五〇)・体温(三八・五度)等の生命反応、逃避反応、対光反射、脳神経の反応等が非常に悪く、同人は右クモ膜下出血に対する手術適応を既に失っていた(脳外科上、呼吸停止状態で、生命反応が安定しない間に手術した場合、ほぼ全例死亡している。)。
8 その後、被告人羅は、呼吸の補助機、自動呼吸装置により亡孝三の呼吸を維持する一方、点滴・脳圧下降剤・副腎皮質ホルモン・止血剤・向神経薬等を投与するなど蘇生・救命のためのあらゆる措置を講じたが、亡孝三は、九日午後一一時五四分ころ、前記傷害に基づく脳腫脹兼クモ膜下出血により死亡するに至った。
四 そこで進んで、前記認定の事実を前提として前田医師の採った医療行為に過失があったか否かについて判断する。
1 原告らは、亡孝三が五月七日午後九時四〇分ころヒトラ外科に運び込まれた際、前田医師は原告町子から亡孝三が頭部を強打し意識を失った旨聞いており、その他にも亡孝三の状態を現認していたにもかかわらず、同人の意識不明の原因について、頭部外傷・頭蓋内出血・血腫等を想定したX線撮影・CTスキャン等の諸検査を行うこともなく同人が泥酔状態にあるものと判断し、あるいは同日午後一一時三〇分ころ、前田医師は二回目に亡孝三を診察した際、同人の失禁や不隠状態にもかかわらずやはり右諸検査を行わず、結局、亡孝三の右疾患を看過してしまったことにより同人の症状を悪化するに任せ同人を死亡させた点に過失があると主張する。
2 まず第一に午後九時四〇分ころ、前田医師が最初に亡孝三を診察した時点の医療行為について検討する。前記認定のとおり、前田医師が亡孝三を最初に診察するにあたり原告町子から聞いた事情説明の内容は、亡孝三が「酔っ払って他人と喧嘩して、椅子から転げ落ちた。下はコンクリートだった。嘔吐が一回あった。」ということだけであり、亡孝三の頭部に対する傷害を予測、発見し、さらに検査をなすべきか否かを判断するのに最も重要な情報が前田医師に正確に伝わっていたとはいえない。一方、前田医師自身が亡孝三を診察して得た所見ないし同人の外見的な状況は前記認定のとおりであって、呼掛けに対し応答があり、四肢の自動運動も可能であったこと、亡孝三の頭部に頭蓋内出血を疑わせるような目立った外傷等は存在しなかったこと、嘔吐や眼瞼の皮下出血は、それ自体としては喧嘩した泥酔者に一般的にあり得る現象であること、その他種々の神経学的検査の結果等の事情を総合すると、亡孝三の外見的症状は、脳や頭部に対する重篤な障害を直ちに予測せしめるものではなく、亡孝三から発する強度のアルコール臭に徴しても、前田医師の亡孝三が泥酔状態にあるとの判断は無理からぬものがあった。以上のような前田医師が原告町子から得ていた情報、亡孝三に対する診察結果ないし所見等を総合しての判断と、当時ヒトラ外科の所在地である尼崎市には泥酔して病院に運び込まれる患者が割合多く、夜間救急医療に当たる医師が右介護することも少なくなかったという地域的状況などを考えあわせると、亡孝三が単に泥酔状態にあり、その他特に重篤な疾患を予測せしめるような状態にないとの前田医師の判断にはやむを得ないものがあったということができる。また、一般に泥酔者は病室で暴れたりしてX線撮影やCTスキャンの実施が困難なことがあるばかりでなく、外傷等の見当たらない者に対し、全て右の検査が必要であるとは限らないのであるから、前田医師が亡孝三に対して右のような判断に基づき一応経過観察をしたうえで、その容態をみてこれに即応した適切な治療措置を施そうとした診療方法には合理性がある。従って、前田医師の右判断及びこれに基づく経過観察という措置が直ちに過失を基礎づけるものとはなし難い。
なお、原告らは、仮に原告町子から亡孝三の頭部強打の事実を聞いていなかったとしても、前田医師において右事実を聞き出すべきであり、かつ、それは容易であったとして前田医師の問診義務違反をも問題とするが、前田医師は、「酔っ払って椅子から転げ落ちた。下はコンクリートだった。」という状況については原告町子から聞き出しており、頭部を触診した際にも原告町子に種々の質問をしていたのであり、前田医師が亡孝三の頭部強打について正確な情報を得られなかったのは原告町子自身が前田、長瀬らから亡孝三の受傷状況について正確な事実を聞いていなかったからであって、前田医師に原告ら主張の問診義務違反があると認めることはできない。
3 次に、同日午後一一時三〇分ころ、前田医師が二回目に亡孝三を診察したときの医療行為について検討する。右時点においては、前田医師は、前記2記載の事情のほか、亡孝三が失禁していたこと、午後一〇時ころ暴れようとして説得に応じて大人しくなったこと、さらに午後一一時三〇分ころトイレに行くと言って起き上がろうとしたことを新たに知ったのであるが、亡孝三はなお泥酔状態にあるものと判断し、睡眠薬を注射すること、点滴の中に睡眠薬を入れること、尿道カテーテルを実施することを看護婦に指示しただけで、その他特に検査等はしなかった。そこで、右前田医師の行為に過失があったといえるか否かであるが、前記のとおり亡孝三は、入院のうえ経過観察の措置を受けているのであるから、前田医師をしてはその容態について十分配慮し必要な事態に備えなければならないのはもちろんである。しかしながら、この場合における医師の注意義務については、前記午後九時四〇分ころにおける状況と関連させて考えるべきところ、右の時点において、前田医師の亡孝三の疾患に対する判断及び経過観察の措置が、少なくとも同医師が当時おかれた状況下においては是認されるべきものであることは、既に判示のとおりである。そして、これを前提とする限り、亡孝三に対する医師の注意義務についても、その脳障害等の重篤な疾患を予測させるような新たな事態のない限り、泥酔者と見られる者に対しどのような観察、検査をなすべきかという観点から考えられなくてはならない。こうした観点から前田医師の措置について検討すると、亡孝三は、失禁していたほか、暴れようとしたり、トイレに行くと言って起き上がろうとする等不隠状態がみられたものの、同人にそれ以上に重篤な疾患を予測させるような所見は見受けられず、これに対して前田医師の採った注射及び点滴による睡眠薬の投与、尿道カテーテルの実施といった措置も泥酔者に対する措置としては是認できるものである。このような見地からすると、前田医師の右の措置について過失があったものとはいい難い。
4 以上によれば、前田医師の亡孝三に対する医療措置については、原告ら主張のような過失があったものとはにわかに解し難く、その他同医師の過失を肯認するに足りる証拠は存しないから、これを前提とする被告人羅に対する請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。
第三 結論
よって、原告らの本訴請求は、被告油木に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、原告町子において金八〇〇万円、原告利夫、同信義において各金三五〇万円及び右各金員に対する昭和六〇年七月一二日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度でいずれも理由があるから、これを認容し、被告人羅に対する請求はいずれも理由がないから、これを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 竹原俊一 裁判官 林 圭介 裁判官 檜皮高弘)